れっきとした歴史 (第二回)
「自動改札機」
これは誰も取り上げないマニアックな人物や物に対して、スポットライトを当て、その歴史について浅く、広く?紹介するコーナーです。
今年の夏、福井にも自動改札機が導入されます。また、YouTube版スリーミーなひとときでも以前、取り上げられ、盛り上がったことから、今回は「自動改札機」について歴史を紐解きます。
1971年(昭和46年)1月1日に、私が住んでいる富山では、ローカル地方鉄道でいち早く「自動改札機」が導入されました。
富山地方鉄道の電鉄富山駅に磁気式定期券専用の自動改札機が設置され、当時、地方の鉄道としては、先進的であると評価されたものの、修理・保守の費用面に問題があるとし、採算が合わず、1984年(昭和59年)4月に撤去されました。
そんな苦い思い出がある自動改札機ですが、歴史は古く、1927年(昭和2年)、東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)に回転腕木を回す形の「ターンスタイル」と呼ばれる改札機が導入されました。これは運賃が10銭と均一料金だったため、自動改札機に10銭を投入し、回転腕木を自分で回すというものでした。
しかし、1931年(昭和6年)9月に均一運賃が廃止され、区間運賃制の導入により、ターンスタイル改札機はなくなりました。
時代は進み、高度経済成長による都市圏での乗客数の増加に伴い、ラッシュ時、駅員の改札が追い付かず、また、鉄道会社の人件費の割合が高いということから、自動改札機の開発が本格的に始まりました。
実用的な自動改札機が導入されたのは、1976年(昭和51年)のことで、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の千里線、北千里駅で立石電機(現在のオムロン)が開発した、定期券専用のものが最初です。
今回は、立石電機が開発した自動改札機について紹介します。
昭和30年代後半、近鉄は自動改札機の開発を大手電機メーカーに打診しましたが、どのメーカーにも、採算が合わない等を理由に断られ、最後に打診されたのは立石電機でした。
立石電機も、部品だけを製造しているメーカーから脱却し、自社製品を作りたいという思惑があり、近鉄と契約を交わし、1964年(昭和39年)に開発チームが結成されました。
開発チームは、テレックスの原理を用いて、定期券に21個の穴をあけ、その穴の配列のデータを自動改札機に通して読み込むという試作機を作り、1967年(昭和42年)3月、実用化に向けた実験が始まりました。
しかし、大きな荷物を持って自動改札機を通ろうとすると、フラップドアが閉まるという問題が生じ、それに追い打ちをかけ、乗継(連絡改札)のため近鉄と同じ定期券を使用していた国鉄が、「穴だらけの定期券では、改札係員が定期を読めない」とクレームをつけ、近鉄はやむなく撤退しました。
社運をかけた立石電機は、大きな荷物を持ってもフラップドアが閉まらないようセンサーを改良し、鉄道各社に自動改札機設置の営業を行い、ついに京阪神急行電鉄の新しくできた「北千里駅」に実用機が設置されました。
ここで、またも問題が、、、
定期券専用の自動改札機だったため、ラッシュ時を過ぎると、普通の切符を入れる乗客がいて、自動改札機が止まってしまうというアクシデントが起きました。かといって小さな切符にいくつもテレックス用の穴をあけることにはいかなかったため、テープレコーダーの磁気テープをヒントにし、切符に磁気塗料を塗り、磁気にデータを読み込ませることを考案し、この問題をクリアしました。
こうして現在の自動改札機の原型がようやく完成したというわけです。
その後、立石電機は、自動券売機、ホテルのカードキーを開発し、大企業への仲間入りを果たしました。
現在はICカード(Suica)等への対応、切符を2枚以上重ねて投入できるなど、技術が進んでいます。
というわけで、以上、今回は自動改札機の歴史を紹介いたしました。
天津 弥
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