「女性偉人の特集」
歴史上の偉人が素晴らしい業績を残した裏には、別の隠れた一面があります。それを紹介する「偉人外伝」。
第三回目は、女性の偉人を2名取り上げます。
- ナイチンゲール
ナイチンゲールのイメージとしては、「白衣の天使」として、近代看護の生みの親というイメージがありますが、はたして?
本名は、「フローレンス・ナイチンゲール」。
1820年にイタリアの裕福な上流階級の家に生まれ、幼少の時に、父から「語学」「哲学」「歴史」「数学」を教わり、特に数学に関しては突出していました。
また、ナイチンゲールは「今のままではいけない」という感情を常に抱いており、何不自由なく暮らしていたことに罪の意識さえ感じ、人に遣える「看護」道に進むことを決意しました。
しかし当時、病院の衛生状態は悪く、そこで働く看護師のイメージは決してよいものではなかったそうです。
家族からの反対にも遭いましたがそれでも看護学校へ進み、卒業後すぐに、クリミア戦争の渦中にあった後方支援病院へ派遣されました。
やはり病院は衛生状態が悪く、この現状を見たナイチンゲールは、「何とかしなくてはいけない」と感じ衛生環境の改善を行い、沸騰させ冷ました水を患者に与え・食事もシェフの作ったものを提供し・包帯は毎日変えるように指示、このことにより、ナイチンゲール赴任当初は、患者の40%が亡くなっていたのが、死亡率2%まで下がりました。
まさに「白衣の天使」です。
看護師として素晴らしい業績を上げたナイチンゲールですが、ここからが誰も知らざる一面です。
看護の経験を生かし、クリミア戦争で戦死したのは負傷などではなく、病院の劣悪な環境であることを英国ヴィクトリア女王に訴えるため、データを可視化することに尽力しました。
戦争での死亡率や、平均入院日数の計算などを用いた「医療統計学」を生み出し、棒グラフや円グラフがない当時、レーダーチャートなどを生み出し貢献しました。
こうして、ナイチンゲールは、「統計学の先駆者」として、世界に名を馳せたそうです。
- キュリー夫人
キュリー夫人のイメージとしては、ノーベル賞2度の受賞、女性初のノーベル賞受賞者と、「才女」のイメージがありますが、はたして?
「キュリー夫人」として親しまれる、「マリ・キュリー」は、1867年ポーランド・ワルシャワに生まれました。
父・母・祖父ともに下級貴族階級出身で、父は大学で物理と数学を、母は女学校の校長、祖父も物理・化学の教授であり、教育者の家系で育ちました。
1880年代、当時は女性に大学進学の道は開かれておらず、ようやく1891年にパリへ渡り、女性でも科学教育の受講できる機関のひとつ、ソルボンヌ大学で、物理・化学・数学を学ぶ日々が始まりました。
勉強に励み、1893年物理学の学士号を得たマリ・キュリーは、フランス工業振興協会の受託研究を行いましたが、研究施設が手狭で困っていました。
そこへのちの夫となる、「ピエール・キュリー」と出会い、二人は「放射能の研究」へ進んでいったのです。
放射能元素のラジウム、ポロニウムの発見と応用により、1903年夫婦でノーベル物理学賞を受賞、1911年にノーベル化学賞を受賞しました。
しかし物理学賞の受賞式で、マリ・キュリーの功績については、スエーデン王立科学アカデミーの会長が「マリ―は、あくまで夫人として夫をサポートした女性」という扱いを受けました。
しかしキュリー夫人は、この後も研究に没頭し66歳で死去、死因は、放射線被ばくによる、「再生不良性貧血」でした。
キュリー夫人は、自身の放射能被ばくを最後まで認めないでいましたが、当時使っていたキュリー夫人のノートは、100年以上たった今もなお放射線を発し続けており、ノートを見るためには防護服を付けないといけないということです。
自分の身を捧げた研究に、身体が蝕まれるとは、皮肉なものです。
偉大な功績を残した二人の知られざる一面を紹介しました。
以上、偉人外伝でした。
天津 弥
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