スガイサオの偉人外伝 #7

「小林一茶」

歴史上の偉人が素晴らしい業績を残した裏には、別の隠れた一面があります。それを紹介する「偉人外伝」。

第7回目は、江戸後期の俳人「小林一茶」を取り上げます。

 

1763年(宝暦13)、現在の長野県信濃町の農家に生まれ、本名を「小林弥太郎」といいました。

3歳のとき母を亡くし、8歳の時に新しい母を迎えたそうですが、働き者の新しい母に馴染めなかった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。

二十歳を過ぎたころに、俳句の道を目指すようになり、葛飾派の師匠に遣え、俳句を学んだそうです。

29歳で、14年ぶりに信濃へ帰り、「寛政三年紀行」という俳句集をつくり、30歳から36歳まで、俳句の修行の旅にでて、関西・四国・九州を旅し、旅に明け暮れ、「たびしうゐ」、「さらば笠」として出版したそうです。

 

一茶は、俳句の腕をあげていき、「雀の子、そこのけそこのけ、お馬が通る」「目出度さも、ちうくらいなり、おらが春」などの素朴な俳句を残しました。

一茶は、貧しく、つつましやかな生活を送っていた印象が深いですが、52歳のとき、人生の転機が訪れます。

 

それは、晩婚で、妻を迎えたことです。それも、24歳年下の28歳の菊という名の女性。

そのエピソードを二つ紹介します。

  • エッチ日記

子供が欲しかった一茶は、夜の営みがお盛んになり、その奮闘する様子を、日記にしたためたそうです。

「十五日 夫婦月見 三交」「十六日 晴れ 三交」「十七日 晴れ 墓詣 夜三交」のように毎日。

 

イカリソウという強精薬を山へ採りに行き、根っこを煎じて飲んだ。

江戸の俳句仲間に、「黄精」という薬を手に入れてくれと、頼んだりもしている。

 

しかしあまりもの絶倫のため、一茶は妻を結婚9年目に亡くしてしまいました。

励みすぎたのがこたえたのでしょうか?

 

一茶は、菊を亡くした時すでに還暦を過ぎていましたが、後妻を迎え、すぐに離婚し、そして次の妻との間にようやく子が授かりました。

しかしそれは、一茶が65で他界した半年後のことで、これだけ営みをしたのに、我が子の顔を見ることができないとは、なんと痛ましいことでしょう。

 

「まとめ」

わたくしも40を過ぎてから、風俗に目覚めてしまい、やはり若い女性を相手にすると、勘違いを起こし、どっぷり風俗にハマってしまったひとりです。

美魔女ブームですが、若い女性には到底かなわないと思っている、20代大好きイサオがお送りした「偉人外伝」いかがでしたでしょうか?

今年、アラ還の私は、一茶の気持ちが良くわかります。

 

では、また次回もお楽しみに!

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天津 弥

八木さんと同じ M&M エージェンシー所属 劇団福井自由舞台で役者もやってます。
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