「マッカーサー元帥」
歴史上の偉人が素晴らしい業績を残した裏には、別の隠れた一面があります。それを紹介する「偉人外伝」。
第四回目は「 マッカーサー元帥 」を取り上げます。
1945年8月30日 神奈川県の厚木海軍飛行場に サングラスをかけパイプをくわえ降り立った姿は有名だと思います。戦後の日本の民主化に向け様々な改革を実行しました。
本名は「ダグラス・マッカーサー」
1880年、アメリカ アーカンソー州 リトルロック生まれ。
母は22歳のときに軍人である、アーサー・マッカーサー・ジュニアと結婚。南北戦争で陸軍大尉として活躍したそうです。
結婚し、三人の子供に恵まれましたマッカーサー家ですが、次男が5歳で病死してしまったこともあり、末っ子のダグラス・マッカーサーは、母親から溺愛されて育ったそうです。
8歳になるまでスカートを履かせ、長くカールする髪型で女の子のようにマッカーサーを育てたということです。そのことを憂いた父は、陸軍士官学校の試験を受けることを勧め、結果は合格。
しかし、首席で卒業するまで、陸軍士官候補生として住む宿舎のすぐ近くに母はホテルを借り、暮らすほど愛されていました。
母と子の強い絆は、大人になっても変わらず、そのせいか、マッカーサーは独身時代が長く、39歳の若さで母校の士官学校の校長に就任しますが、昼は宿舎に帰り母と食事をし、公式なパーティーも母と一緒に同席したそうです。
42歳の時マッカーサーはルイーズという女性と結婚しましたが、嫁が気に入らなかった母は、結婚式の出席を断固として拒否。結局、マッカーサーは数年で離婚したそうです。
そんな最愛の母は、83歳で死去。悲しみに暮れたマッカーサーは、母の死んだホテルの部屋を、一年間そのまま閉めておくよう命じたそうです。
その約一年後、1937年、57歳のマッカーサーは、20才近く年下の女性と再婚。
日本にやってきたのは、それから8年後のことでした。
サングラスをかけ強面のイメージにそぐわないそんなイメージを持つマッカーサー、マザコンであったのは、驚きです。
そんなマッカーサーが最後、引退時に残した言葉は、
「老兵は死なず、ただ去り行くのみ」
でした。
これは、もともとアメリカ軍で歌われていた歌詞の一部で、当時の大統領と、対立し、朝鮮戦争の指揮をとれず退任させられ、軍を去ることになった自身への言葉でした。
GHQを退いた後 1964年4月 84歳で死去しました。
以上、偉人外伝、今回はマッカーサー元帥を取り上げました。
次回もお楽しみに。
天津 弥
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