「 石川啄木 」
歴史上の偉人が素晴らしい業績を残したよいイメージの裏には「へんてこな」隠れた一面があります。それを紹介する「偉人外伝」。
第一回目は「石川啄木」です。
一般の石川啄木のイメージとしては「短歌を詠んだ、明治時代の偉大な歌人」というイメージですが、はたして?
歌としては「はたらけど はたらけど猶、わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」が有名ですが、その石川啄木、1886年岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸)にて曹洞宗の住職をしていた父・一禎と母・カツの長男として生まれました。
本名は、石川一(はじめ)。
引っ越しのため渋民村へ。渋民尋常小学校を卒業後、母方の伯父の所で下宿する形で、盛岡高等小学校へと進学。成績もよく、盛岡尋常中学へ進学。そこで、金田一京助、後の妻となる、堀合節子らと出会います。
四年先輩の金田一が、与謝野晶子の作品が載っている「明星」という文学誌を紹介することで、啄木は、文学の世界にどっぷり漬かっていきます。そしで、文学で生計を立てようと夢見るようになります。
このように文学へ傾倒していった啄木は、徐々に成績が落ち始め、とあることをしてしまいます。
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①カンニング
4年生の時二度のカンニングをしてしまい、退学処分になりました。
これを機に「明星」文学誌の与謝野晶子夫妻を頼り16歳で上京。この行動力がすごいですが、就職もうまくいかず、お金が無くなり、やむを得ず盛岡へ帰郷。東京時代、友人宅へ居候をし、かなり迷惑をかけたということです。
盛岡、帰郷後、「明星」に寄稿を始めます。このとき掲載された、「愁調」という作品が、啄木が世間に最初に注目された作品です。
詩人としての活動が波に乗ってきたころ、啄木は、同級生「堀合節子」と結婚しますが、ここでも問題あり。
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②ドタキャン
啄木は結婚式をドタキャンしてしまったのです。
父が宗教費を滞納してしまい、住職をはく奪されたことから、長男として一家の大黒柱になるのが嫌だったため、仙台に逃げたのです。
さて、身を固め一家を支えるため、しばらく、盛岡で教職として働いていましたが、詩人の道を諦められず以前から憧れのあった「函館」へ渡り、いろいろな職を転々としながら、歌を作りました。
しかしながら、どの仕事も長続きせず、遅刻や無欠勤が多く、勤務態度はよくなかったそうです。
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③仕送りをしない
働いていたにもかかわらず、家族には一切、仕送りはせず、ついに、妻・節子は自分の財産を売って生計を立てたそうです。
ここまででしたら、貧しい文学少年と理解できるのですが、
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④女遊び
函館では、遊郭の遊女と恋仲に陥ったり、その他二人の女性と浮気をしていました。
その遊女と遊ぶ金が工面できなくなるほど、会社員として稼いだお金を遊郭に使っていました。
ここまでくると、「浪費家」と言わざるを得ません。
それに見かねた他の遊女が遊ぶお金を恵んだそうです。
働きたくない、女性と遊びたい。まるで私、スガイサオを見ているようですが、啄木は、センチメンタルな歌を残し、偉人となりました。
24歳の時、結核で亡くなった啄木ですが、最後に私が知っている有名な啄木の歌を詠んで締めたいと思います。
「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
以上、偉人外伝一回目でした。
天津 弥
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