れっきとした歴史 (14回目)
「鎖国から開国への言葉の壁」
これは、誰も取り上げないマニアックな人物や物に対して、スポットライトを当てその歴史について、助手いさおが 浅く・狭く紹介するコーナーです。
今回はおまたせしました。八木さんの調査リクエストをお送りいたします。
「諸外国から開国を迫られたとき、鎖国をしていた日本がどうやって言葉を交わしたのか?」について紹介していきます。
まず鎖国とはなんぞや? 鎖国の歴史についてサクッと振り返ります。
1549年(天文18)にフランシスコザビエルが来日 日本に初めてキリスト教を伝来し、それ以来、貿易船を通じて宣教師が次々と海を渡り 日本へキリスト教の普及を行いました。
「神の下では平等」というキリスト教の教えに、信者は、一般市民だけではなく、戦国大名の中にも増えていきました。
江戸幕府は、キリスト教の勢いに「諸外国に植民地化されるのではないか?」などの警戒心を抱いていましたが、貿易で得られる利益を優先し、黙認してきましたが、キリスト教信者の人数、力とも増していき、ついに貿易は許可するが、布教を含め、キリスト教を禁止する、「禁教令」を制定。江戸 京都の教会を取り壊し、宣教師の追放を実施し始めます。宣教師は長崎に集められ、そこからマカオやマニラに送還されました。
そして江戸幕府は、キリスト教の禁止のみならず、中国との貿易以外は、長崎と平戸に限定するなど、貿易の管理を行い始めます。
1639年(寛永16)長崎・出島が完成し、オランダ、中国、朝鮮との貿易のみとなりました。なぜ、オランダが、欧米で唯一国交があったかというと、キリスト教布教に興味がなく、貿易のみに関心があったからです。この後、鎖国は200年余り続きました。
さて、本題ですが、
江戸幕府が、開国を迫ったアメリカなどとの言葉の壁をどうしたか?ということですが、1853年にマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍が黒船に乗り、今の神奈川県横須賀市である「浦賀」に上陸しました。長崎出島には、オランダ語を話すことのできる通訳がおり、ペリー側の使者が 英語をオランダ語に訳し、出島の通訳が オランダ語を日本語に訳して幕府に話したということです。逆も、日本語→オランダ語→英語 とやり取りをしたそうです。そしてついに翌年の1854年(嘉永7) 3月31日、今からちょうど166年前に「日米和親条約」が結ばれました。
ちなみにペリーは4隻の軍艦で浦賀まで来ました。しかし、当時は太平洋を一気に渡る分の燃料を船に積む技術がなく、ヨーロッパを経由し東回りに燃料を補充しながら、半年かけて日本へやってきたそうです。江戸幕府に開国をどうしてもやってもらいたいと ペリーは相当の覚悟で来たのが伺えます。
もし1853年、ペリーが日本へ来なかったら、日本は、令和の時代もちょんまげを結って、国内で戦をしていたかもしれません。
以上、れっきとした歴史でした。
天津 弥
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